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プレル、ガリレオ、カッセンディ等を讀めるのみならず、尙ほ中世紀の哲學に對しても注意することを廢せざりき。彼れは後にアルトドルフに行き其處にて法律學科を以てドクトルの學位を得、次ぎてマインツに行きて其處の宮廷に事ふることとなれり。彼れがマインツ公に事ふるや法典及び法律學上の改良を成さむとの企國を懷き且つ益〻自然科學を硏究すると共に當時に行はれたる新流の學說に其の好尙を傾くることとなり、一時はスピノーザの徒の說く所に心を寄せたりといふ。後彼れは一千六百七十二年公務を帶びて佛國巴里府に赴きて其處に滯在し時の佛王路易第十四世の獨逸征服の念を防止せむが爲めに王の心を埃及征伐に向けむと試みたることあり。斯かる政事上の職務に鞅掌せる間にも彼れは常に心を學術の攷究に傾け殊に巴里に在りては數學を修めまた此の頃より深くデカルトを硏究したり。彼れは早くより廣く當時の學者と交はり書簡を以て其の意見を交換し巴里に在りてはホイヘンズ(和蘭物理學者 Huyghens 一六二九―一六九五)及びアルノール等と親しく交はり又是れより先きホッブスに書を贈れることあり。彼れが巴里府に在りてツィルンハウゼンと相知るや、ツィルンハウゼンはス