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エ、クリティック』("Dictionaire Historique et Critique")なり。されど彼れは組織的に懷疑說を唱道するよりも寧ろ其の應接せる幾多の學說に就きて其の中に存する矛盾の點を發見することを好めりしを以て彼れ自らの說く所に於いても相合はざる所あるを見る。盖し知識を求むる熱心と、在來の學說に自家撞着の點を發見して之れを破壞するを好む心と及び宗敎上の信仰を重んじ道德心の指示を信ずる堅き心とは彼れに於いて奇妙なる結合を爲せるなり。

ベールは在來の學說を批評し去りて吾人の理性が確實不動の眞理を發見し得ることを疑ひ、進みてデカルトが其の哲學の出立點としたる自識の確實なることをも疑ひて曰はく、我れ自らに就きて吾人の知る所よりも外界に就きて知る所の方却りて確かなりとも云はるべし、何となれば吾人自らは一轉瞬每に變遷し行くものにして到底我れ自らの如何なる者なるかを確知すること能はざる可ければ也。吾人の理性は寧ろ矛盾の點を發見し破壞を事とするものにして確實なる知識を建設する力あるものに非ずと。斯くの如くベールは在來の諸學說の信憑するに足らざることを說きしと共に宗敎上敎會の唱ふる信仰に關しても其が道理に合