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に消滅し了すべし。
而して斯くの如く煩惱を靜め妄執を去るは唯だ乾燥無味なる理窟を考ふることによりて成さるゝにあらず。情を靜めむには須らく他の情を用ゐるべし。而して萬物永恒の理を看ることに於いて一種深奧なる情の伴ひ來たるあり、何となれば斯く萬物の本體を觀ることは取りも直さず我が本性を全うするものにして其の性を全うすれば吾人はおのづから大喜悅を覺ゆればなり。而して此の喜悅は是れ萬物の本禮即ち神を知ることによりて來たるものなれば此の喜悅の原因として神を觀るに至るは是れ即ち神に對して愛を覺え來たるなり。かくして吾人が一切の事物は神の必然の性より出で來たるを知るは已に乾燥無味なる智識にあらずして一種の言ひ難き喜悅を以て充たされたるもの、而して此の大喜悅の心あるによりて吾人は自然に一切の煩惱を忘れ果てゝ神明に和合するを得るなり。此の心是れ即ちスピノーザが神に對する知性の愛(amor intellectualis Dei)と名づけたるもの也。
神を知るといふは全き觀念を有するの謂ひ也、而して全き觀念は無限智(intellectus