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全く主知論の見地を取りて吾人の知性が吾人の一切の心作用の方向を定むる者にして吾人の意志は思考の結果に外ならずと說けり。後にまた其の大著『エティカ』に於いては吾人の心的活動は畢竟皆思考作用にして意志は知性の作用と一なるものなり(Voluntas et intellectus unum et idem sunt.)とせり。スピノーザが此の見地に居る時には、彼れに取りては知性の認むる所にして意志の承認せざるものある無く、意志の承認と知性の承認とは同一不二なるものと見做されたりと。

《完全なる觀念と不完全なる觀念、推論知と直觀知。》〔一七〕スピノーザの哲學にホッブス風の自然論とデカルト風の主知論とが相結合せる樣は彼れが吾人の自衞の性を說く所に於いて最も明らかに現はれたり。彼れに取りて所謂自己の保存は吾人の能動的(或は自動的)狀態を保つの謂ひにして而して所謂能動的狀態は吾人の知性が明瞭に十分に作動する所に在り、吾人の知性の働き不十分にして漠然たる觀念に蔽はるゝは畢竟吾人が所動的狀態に居りて他に制限せらるればなり。故にスピノーザが此の見地より云へば、吾人の自己を保存して吾が存在を擴張し吾れを完全の域に進むるは即ち吾が知性の働きを强健ならしむると同一なり。換言すれば吾が存在を增して多くの實在を