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ピノーザはデカルト及びホッブスと其の意見を同じうして物理界の說明に目的觀を持ち來たることを拒めり。世界の事物が或目的に從ひて形づくらると考ふるは畢竟人間の感想を世界に移せる誤謬にして之れを以て自然界の生起の說明とは爲す可からず。また斯くの如き目的說は却りて神を不完全なるものとするに當たる、何となれば神若し或目的を懷いて活動せば彼れ其の目的を達せざる間は未だ滿ち足れる者といふ可からず、換言すれば、其の目的を達し得て始めて完全圓滿なる者と云はるべければ也。かく自然界の事物は全く機械的に考へざる可からず、故に物理上の根本法則は惰性律なり。されどスピノーザはツィルンハウゼン(Tschirnhausen)の質問に對して物體を唯だ廣がれるものと見ては其が運動の起こり來たる所以を說明すること能はざるを承認せり。(デカルトは此の故に神が物體に運動を與へたりと云へり、されどスピノーザに取りてはかゝる說明を用ゐること能はず。)故に彼れは物體を唯だ廣がれるものと見るのみにては未だ盡くさざる所あるが故に其の定義を新しくするを要すと云ひしが、彼れは此の點に於いて遂に其の說を全うするに至らざりしが如し。