Page:Onishihakushizenshu04.djvu/144

このページは校正済みです

ふ(三角形と三角形の角度の和が二直角に均しきこととの關係の如しといふ)の意を現はすに適せざるやうなれど、スピノーザの說く所に於いては實際神が萬物を生ずるかの如くに言ふ趣あるを看過する能はず。彼れは常に理由(ratio)と生因(causa)とを同一視せり、而して其の二者を同一視するや或は眞實の意味に於いての生因を言はずして、生因即ち理由に外ならず、換言すれば、論理上或結論を來たすものに外ならずと說けるが如く思はるれど又然らずして之れを通常所謂生因なるが如くに說ける所もあり。彼れは此の二者を同一視せるよりして或は生因の方面を沒して理由に歸せしめ了せるかの如く見ゆる所もあれど全く然らずして兩者を混同して說ける所もまた無きに非ず。是に於いてエルドマン及びクーノー、フィッシャー等の見解の差別を生じ來たる。エルドマンは以爲へらく、スピノーザに取りて所謂原因(causa)は生因にあらずして時間に關係なきもの即ち論理上の理由に外ならずと。クーノー、フィッシャーは曰はく、スピノーザの所謂本體の性は卽ち本體の力なりと。力といふ、已に其の活動によりて萬物を出現せしむる意味となり來たる。是れ畢竟スピノーザが其の所謂原因(causa)といふ一語に於い