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が圓滿完全の相を顯はすものに外ならざれば也。本體其の者の具ふる性は斯くの如く無限に多かれども吾人の知り得る所は唯だ心(念ひ)と物(廣がり)との二つに過ぎず。天地萬物の吾人に對するや或は心の方面に於いて或は物體の方面に於いて知らるゝのみ。件の二つの方面以外に吾人の知り得る所なし。されど是れは吾人の知力の限りあるが故なり、若し吾人以上の知力を具ふる者あらば心物以外の方面に由りて本體を觀ることを得べし。
斯くしてデカルトに於いては第二義の名の下に體を具ふるものとせられたる心と物とはスピノーザに於いては體を具ふるものと視られずして唯だ一本體の性とのみ見らるゝこととなれり、即ちスピノーザは唯だ一本體の存在を許して第一義第二義といふ區別をば全然拂ひ去れり。されど彼れには尙ほ或意味に於いてデカルトの二元論を維持せりと見らるべき點あり、即ち彼れが思念と廣袤とを以て全く別異のものとなし其の一方に於ける事相を持ち來たりて其の他方に於ける事相を說明すること能はず、即ち一を說明せむが爲めに他を因とすること能はず、二者の間全く因果の關係なしと說ける所是れなり。