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に在りて之を生ぜしむる超越的原因(causa transiens)にあらず。故にスピノーザは中世紀の末葉に旣に用ゐられる語を用ゐて神をナトゥーラ、ナトゥランス(natura naturans)と名づけ萬有即ち自然界をナトゥーラ、ナトゥラータ(natura naturata)と名づけたり。即ち前者を以て凡べての物を爾かあらしむる所以の本體の義とし、後者を以て爾かあらしめらるゝ萬物の謂ひとせり。以爲へらく、全自然界と神とは相即したるものなりと(deus sive natura)。

スピノーザの謂はゆる神は全く自然界と相離れたるものならざること及び人間の如く心意を有して作爲する者に非ざることに於いて、當時の宗敎に於いて一般に信仰せられたる神と異なれり。故に彼れの說は先づ無神論として彈訶せられ時人は詳かに之れを了解し得ざりしなり。

《本體の性、心(念ひ)と物(廣がり)。》〔五〕上に述べたるが如く本體は無限なるもの、換言すれば、圓滿完全なるものなり、而して其の吾人に知らるるや其のによりてす。性(attributum)とは本體の本質を成すものとして吾人の知力の認むるものなり。但し本體は圓滿にして凡べての實在を含むものなるが故に限りなく多くの性を具ふ、何となれば其の性は其