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《本體の觀念。》〔三〕斯くしてスピノーザは其れ自身に確實明瞭なる觀念より出立し、數學的に論步を進め行かむとして以爲へらく、眞理は他のものに照らして證明さるゝを要するものに非ず、吾人の之れを思ふや直ちに其れ自身明らかなりとせらるゝこと譬へば光の其れ自身を照らすが如しと。是れ先きにデカルトが明瞭に且つ判然と吾人の思考する所を以て眞理となせるに基づけり。スピノーザに從へば、眞知識とは個々の事物をしからしむる所以の理を知るの謂ひなり。單に種々の事柄を集めたるのみにては尙ほ唯だ漠然たる經驗に止まりて未だ眞知識とは云ふ可からず。只だ數多の事物を見聞するのみにては未だ必ず其の事物のしかる所以を發見したると同じからず。眞知識は其等幾多の出來事を然らしむる所以の根本理を看破する所に在り。之れを本として推考すれば啻だ一二の事物のみに限らず凡べての物のしかる所以を其の本性に於いて發見することを得。而してスピノーザが萬事物を說明するに缺くべからざる根本觀念として出立したるは彼れがデカルトに得たる本體(substantia)てふ觀念なり。スピノーザに取りては本體てふ觀念ほど明瞭に又證明を待たずして承認せらる可きもの無し、何となれば本