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の血統は猶太人にして父は相應に暮らせる商人なりき。抑〻アムステルダムの猶太人は西班牙及び葡萄牙より移住せる者、而して曩にも云へる如く西班牙の猶太人間には一時文物煥發して名ある哲學者も出でたる程なりしが後に異宗旨を奉ずる故を以て彼等は基督敎徒のために劇しき迫害を蒙ることとなり多く和蘭に逃れ來たれり。彼等和蘭に逃れ來たりてよりは累はさるゝこと無く其の昔ながらの禮拜を維持することを得たりしが斯くなりて後はまた彼等仲間の中に宗旨上に壓制を行ひ嚴しく異端と見るべきものを排斥し初めたりき。斯くの如き宗敎上の爭ひは當時代の流弊なりきと云ふも可なり。

スピノーザはかゝる猶太人間に在り其の學校に入りて經典を修めたりしが才學群を拔き幼より頭角を現はして十五歲の頃には已に一廉ひとかどの經學者と見らるゝに至れり。彼れは其の後宗敎に關しては自由思想を懷けりと評判されたるフランツ、ファン、デン、エンデといふ醫師に就きて拉丁語を修めたるのみならず、其の頃旣に猶太の經學者の敎ふるところに慊らずなりて寧ろ物理の學に心を傾け、又後來彼れが哲學思想の起點ともなれるデカルト及びジョルダ一ノ、ブルーノの著書を