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ランシ以爲へらく、限りある心又限りある物體と同一の意味にて神を心と云ひ又物體と云ふこと能はず、されど限りなきものとしては心も廣がりも共に神の具ふる所なり。凡そ有限のものは皆彼れに與り彼れを分有することによりて存在す。一切の完全なることは神に備はり、而して之れに與り之れを分有せるもの是れ即ち吾人の心と諸〻の個々なる物體となり。神が思念の對境となるは神自身なり、又神自らが其が意志の目的なり、換言すれば、神は自らを知り自らを愛する者なり。吾人が事物を知るは神が自らを知る知識に與るに外ならず。吾人の世界を觀ずるは神の自らを觀ずることを分有するもの也。マルブランシは此の意を言ひ表はして「我等は萬物を神に於いて見る」といへり。萬物の存在するは其が神に於ける模範的觀念を分有すれば也。而して此等の模範的觀念は神に於ける永劫の眞理にして其は神の意志によりて定められたるものに非ずして本來神の性に具はれるものなり。マルブランシは空間が個々の物體の居處なるが如く、神は吾人の精神の居處なりと云へり。

《一切の原因は神に在り。》〔七〕一切の原因は唯だ神なり、吾人の知識も畢竟ずれば神によりて與へられ