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發達を叙し行くに隨ひて明らかになるべし。

デカルトの據れる論法に於いて尙ほ批評さるべき點あることは哲學史家の屢〻注意せる所なり。蓋し彼れの哲學を立つるや吾人の明瞭に認知し得ることを以て眞理の標準となし、さて其の論步を進めて神の存在を證するに至れり。されど彼れが論證は神の存在を證し、其の誠實の德を具ふることを確め、而して神の誠實なることに賴りて吾人が理性てふものの憑據するに足ることを證せむとしたりと見ゆ。此の點に於いて彼れの論に缺陷ありと云はるゝは其の循環論證の過誤に陷らざるかといふこと是れなり。そは彼れが先づ眞理の標準を確かめ次第に論步を進め行きて神の存在を證するに至るまでは是れ已に理性に依賴せるものならずや、即ち彼れは一步々々の道理上明瞭に認知したる所を以て眞理となし來たれるならずや。然るに飜りて神の存在と其の誠實の德とを以て吾人の理性の眞實なることを證するは、云はば吾人の明瞭に思考したることは眞理なりといふを根據として神の存在を證し、飜りて神の存在を根據として吾人の明瞭に思考したることの眞理なる(換言すれば吾人の理性の吾人を迷はすが如きものならぬ)ことを