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のによりて其の觀念が與へられたりとせば、換言すれば、外物は吾人の知覺する所とは全く異なれるものならば吾人の知覺は悉皆迷妄なりと云はざる可からず。吾人の知覺に依賴する限り吾人は廣がりを有する物體を存在すと思はざるを得ず。故に此の知覺にして若し全く迷妄ならば神は吾人を迷はさむが爲めに吾人に其の如き知覺を賦與せりと云はざる可からず。然るに神は誠實にして斯く吾人を迷はすべき者にあらず、故に廣袤を有する外物の存在すといふ知覺は吾人の信憑すべきものなり。但し個々の塲合に於いては感官に種々の迷妄の起こるあるは勿論なれど廣袤ある物體の存在すといふこと、換言すれば、外物の存在すといふことを全く迷妄なりとするは甚だしく吾人が意識の證明に逆らふもの、其を迷妄とするは吾人の確實なりとする事物の關係を全く疑ふに同じ。されど上に已に論じたる如く圓滿なる神を以て萬物の原因と見る以上はかくの如き疑ひを起こす必要なきなり。

《實體、屬性、樣狀。》〔一〇〕かくしてデカルトは遂に論じて物界の存在をも確實なりとするに至れり、彼れが論證の順序より云へば、先づ能意識者、換言すれば、吾人が各〻「我」と名づ