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寫」を以て外物を二重にするもの、畢竟不要のものなりとして之れを捨てたり。彼れに從へば吾人の外物を知るは直接なりされど吾人の思ひ浮かぶる所は外物の摸寫にあらずして唯だ外物の自然の標幟なり。言語は之れと異なりて勝手に定めたる標幟なり。故に吾人の知る所は外物それ自身にあらずして唯だそのしるしとなるもの也。吾人は先づ個物に接して其の如き個物の標幟となるもの(即ち觀念)を思ひ浮かべ然る後また其等の幾多の觀念の標幟として一槪念を思ひ浮かぶ。故にかくの如き槪念は事物の標幟と云はむよりも寧ろ事物の標幟の標幟なり。

然れば吾人は外物それ自身の有樣を知る能はず。外物の知識に優りて確かなるは吾人の內心を觀る知識なり。さはあれ內心の知識も所詮靈魂の本體を觀るに非ずして唯だ其の狀態を知るに止まる。之れを要するに一切の知識は外物を知覺するか將た內心の狀態を知るか、其の何れかの經驗に基づきて來たるものにて此の他に吾人の直接に知識し得るものなし、故にまた神を知る直接の知識なし。

《宗敎上論證の範圍更に窄まる、神學非學問論。》〔一〇〕神を直識すること能はずば吾人は論理の步を追ひ論證して彼れを知る