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めはアリストテレースの著書にまでも及びたりしが漸々彼れの哲學と新プラトーン派の學說との同一視す可きものに非ざることの明らかになるに從ひて彼れの著書の認許せられ後には其の硏究を獎勵し遂には其の學を講ずるを以て敎會の學者に缺く可からざることとなすに至り而して單に哲學者(Philosophus)と云へばアリストテレースを意味することとなれり。卽ち當時はアリストテレースが哲學上の主權を握りたりし時代なり。

《アリストテレースの崇ばれし理由、スコラ哲學の全盛。》〔二〕かくの如くにアリストテレースがスコラ學者に受け容れられ又尊崇さるゝに至りたるには理由あり。其の理由の一は彼れの哲學の方式が當時の敎學を組織することに便利を與へたること卽ち此の點に於いて彼れの論理式が最も有用のものなりしことなり。其の二は敎會が天然界に關する知識をも網羅して當時の學界の主權を握りあらゆる世間の事を司るものとなるの必要を感じ而してアリストテレースは最も這般知識の淵源となるに堪ふるものなりしことなり。其の三は彼れの有神哲學が希臘哲學の中最も敎會の敎理卽ち神學を組織するに適合せりと思はれたることなり。此等の理由を以てアリストテレースの哲學の大に