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實現されたる神聖にして完全なる人性に與ることによりて罪惡を脫することを得るなり。

《基督論。》〔一三〕人間は今は旣に神に對する義務を缺けるが故に自力もて己れを救ふ能はず。假令今善事を爲すといふともそは唯だ神に對する當然の義務を爲せるにて以て其の犯せる罪過を贖ふに足らず。しかも其の罪過は人間自らの犯したるものなるを以て人間自らが之れに對する責任を負はざる可からず。然らば奈何にすべきか。曰はく唯だ一途あるのみ。人間は自らを救ふ能はず彼れを救ひ得るは唯だ神なり。されど人間の自ら犯したる罪過なれば己れ其の罪過を贖ふを要す。故に人間を救ふ者は神にして又人ならざる可からず神が自ら人間に降り人間を自らに引き上ぐることによりて始めて人間は救はるべし。即ち人間は「神人」の媒によりて初めて神に歸ることを得而して「神人」として世に現はれたる者これ基督なり。基督の世に在りて嘗めたる艱苦は人間の罪過を亡ぼし得る無限の功德を有す何となれば彼れは人類が其の自然の生殖の道によりてアダムより傳へたる瀆れたる性を享けず新たなる人として處女の胎に宿りて生まれ些も罪惡に