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て與りし也。此等の學校即ちスコラ(Schola)に集まりて學を講じたりし故を以て彼等にスコラ學者(Scholastici)といふ名稱あり、彼等は一言にいへば敎會の學者即ち敎法師(Doctores ecclesiae)なりき。

《スコラ學者の假定、敎理と實驗、神秘家と自然科學者。》〔二〕スコラ學者の目的は敎會の信仰の道理にかなへることを示さむとするに在りしが故に彼等の根據とせる假定は(一)宗敎上の信仰に於いて吾人は已に確實不易なるものを有し居ること、而して(二)吾人の知識(或は理性或は理解力)は吾人が已に信仰として有するものの道理に合へることを示すに過ぎざるものなること是れなり。故に彼等に從へば吾人は已に信仰として必要なるものを有す而して吾人をしてそを理解せしむるが哲學の目的なり。故に理性は信仰に對して獨立の位置を有するものに非ず唯だ信仰の爲めにそが道理上の根據を示すに止まるものなり。是れスコラ哲學に於いては理性は信仰に對して婢僕の地位に在りと云はるゝ所以なり。

然れども謂ふところ吾人が宗敎上確實として有するものをば二樣に見ることを得。盖し或は之れを(一)敎會の敎理として客觀的に定まれるもの、換言すれば敎會