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實體が自らを觀ずるなればなり。吾人はヌウスの自觀を得るのみならず更に進みて遂に萬物の太原たる神に合して神に充たされ神の中に沒して自らを忘るゝに至らざるべからず。是れ意識を超越し言說を絕したる名づくべからざる境涯なり、之れをエクスタシスと名づく。かくの如き境涯に達し得るは修行を積める優れたる者ならざるべからず而して優れたる者と雖も唯だ時ありて件の狀態に入り得るのみ。プローティノス自らは其の生涯の中數度此の境涯に入りたりとぞ。エクスタシスの狀態に達するには宗敎的禮拜の如きも亦多少其の助けを爲すことあるを否まざれどもプローティノスは未だ多く其の如き禮拜の必要を說かず。但し彼れは通俗の宗敎に反對せず寧ろ通俗の宗敎的思想を譬喩と解して其の中に其理を發見せむとしたれど未だ哲學者の自信を失はずして迷信に媚ぶることをなさざりき。彼れは、神々は寧ろ我れに來たるべし我れより彼等に行くを要せずとまで云へり。

《ポルフィリオスと通俗宗敎。》〔一〇〕プローティノスの弟子なるポルフィリオスに至りては其の思想は著るく通俗の宗敎に接近し種々の禮拜を必要とし肉食、妻帶、觀劇等を禁じて成るべく肉