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修辭家を羅馬より放逐するの議を決したりし程なりしが希臘學術浸入の大勢は遂に支ふること能はず後には却つて羅馬靑年の敎育を全うせむには希臘學術の中心なる亞典、ロードス、若しくはアレクサンドリアに行きて學ばしむることを必要とするまでに至れり。然れども羅馬の學者は槪ね希臘學派の理論上の差別に重きをおくことをせず何れの學派たるに拘はらず唯だ最も容易に常識を以て了解し得べくまた實際の行爲に適するものを選べり。故に羅馬學者の大體の傾向は實際的なると共に折衷的にして學理上に於いては槪ね希臘人の糟粕を嘗むるに過ぎざりき。羅馬のストア學も亦學理に於いて希臘往時のストア學說の如くに圭角あるものにはあらざりき。

羅馬の折衷學者の中最も傑出したるはシセロ(紀元前百〇六年―四十三年)なり。彼れの著述により吾人は古代の哲學に關して知識を得ること少なからず。希臘の哲學思想を拉丁語に移したる功績は最もシセロを推さざるべからず。彼れの友ヷルロ(紀元前百十六年―二十七年)も亦折衷學者の一人として見らるべき者なり。クインティウス、セクスティウス父子の一派も亦此の部類に屬するものと見る