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のは到底吾人の知識し得る所にあらずと。

《或然眞理。》〔七〕然れどもカルネアデースは吾人が些かも思ひ設くる所なく、聊かも判別をなすことなくしては吾人の行爲の起こる所以の解すべからざることを認めたり。以爲へらく、吾人の行ふにあたり或る定まれる行爲に出づるは吾人に多少選擇する所ありて一觀念よりも他の觀念に重きを置くに起因すること勿論なれども行爲を來たすものは明瞭なる觀念なこととを必要とせず吾人は必ずしも眞理を知れるがゆゑに之れに從ひて行ふにあらず唯だ或は然らむと思ひ設くるほどのことあらば行爲に出づるに妨ぐる所なしと。こは已にアルケジラオスの論じ出でたる所なれどカルネアデースは更に詳しく或然の差等を定むることに論を運ばしたり。曰はく、事物を見てそを或は然らむと思ふに數多の差等あれど之れを大別すれば三段に分かつことを得べし。最下等なるは各觀念が獨立に唯だしかあるらしと思はるゝもの、次ぎなるは一の觀念が他の觀念の團體に屬しそれと矛盾することなくしてそれに容れらるゝもの、最高なる或然の度は一團體を成せる觀念の各〻が互に相保持し互に根據となるもの是れなり。此くの如く事物の