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馬に行きしことあり其の學識と雄辯とを以て當時に鳴れり。著書を遺さず。哲學史家は通常アルケジラオスの指導によりて轉じたるアカデミーを第二のアカデミーと名づけ、後ちカルネアデース起こりてよりのを第三のアカデミーと名づく。或は第三のアカデミーを新アカデミーと名づけ、之れと古アカデミーとに對して第二のアカデミーを中アカデミーとも名づく。されどアルケジラオスの指導の下に在りしアカデミーも其の後カルネアデースの下に在りしアカデミーも共に懷疑說を主張せしを以て二者を總稱して新アカデミーと名づけ之れをなほプラトーンの學說を維持したりし時代のもの即ち古アカデミーと相分かつの名稱とする方煩はしからざらむ。

《*其のストア學に對する攻擊。》〔六〕カルネアデースも亦烈しくストア學派を攻擊し(*又あらゆる積極論ポジテイヴシステムを攻擊し殊に烈しく超自然的神學說及び目的說テレオロジーを攻擊せり)其の力の多部分は此の攻擊に用ゐたりしが如く見ゆ。以爲へらく、ストア學派が以て眞理の究極の標準となす所の如きは畢竟ずるに個人の主觀的信念に懸かるもの、決して遍通不易なる能はず。吾人の觀念は畢竟主觀上のもの、事物の實相、不易の眞理といふが如きも