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り仝二百七十年頃迄)〈ヅェーノーンの血統は希臘人にはあらざりしなるべし〉の創立する所にかゝる。彼れ亞典府に來たりてキニク學徒なるクラテースに學びて大に之れに心を寄せ、またメガラ學派のスティルポーン、プラトーン學派のクセノクラテース及びポレモーン等に聽きたりしが、後に自立してストア、ポイキレー(彩色したる堂の義)に自家の學派を開き同志の輩を集めたり。是れ此の學派のストアと稱せらるゝ所以なり。

此の學派はヅェーノーンの創立に係かれど一人が一時に作り上げたるにはあらで數多の歲月を經數多の人によりて作り上げられたるものなるが故に同じくストア派の學者にても人により時によりて其の所說必ずしも全く同一ならず。斯く人と時とによりて多少の差別はあれど全體の趣に於いて同一の趣を帶び同一の流れを汲める者を總稱してストア學徒と名づく。學祖ヅェーノーンの次ぎに此の學派の領袖として有名なるはクレアンテース也。彼れは夜は卑賤なる家業を營み晝は道をヅェーノーンに聞けりと傳へらる、其の品行の堅固なることはキニク學派の所謂賢人の理想を傳へたるかの如く見ゆ。彼れは此の點に於いて時人の大なる尊重を受けたれども哲學上の學說に於いては別に深く考へたる所ありとは