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なり(個々分離の基因は素なり物體なり)。また形體あるものは相分かたれて異なる部分を有すれば神は形體以上のものならざる可からず、神には聊かも素の方面なければなり。即ち神は純一にして圓滿なるもの、形體以上のもの、換言すれば純粹の智、純粹の精神にして、其の知る所は自己以外にあらず、己れ自らを知るの知識(νόησις νοήσεως)なり即ち純粹の自觀なり、純なる自觀者にして他に求むる所なく常に圓滿自足なるもの、自ら動きて他を生ずるに非ず唯だ萬物の圓滿なる極致として其の生起の原因となるなり。換言すれば自ら動き求むる所ありて萬物を生ずるに非ず唯だ其の存在そのものが萬象の原因となり萬象は皆之れに向かひて進み來たるなり、譬へば愛せらるゝ者が愛する者を自然に引くが如し。萬物は素の狀態より圓滿の極致なる神に向かひて進まむとするなり。此の故にアリストテレースは其の謂ふ神學(θεολογική)を其の純理哲學の頂上となせり。

此のアリストテレースの說に至りて感官以上なる非形體なるプラトーンの謂へるイデアが更に一轉して明らかに精神的なる即ち明らかに靈智なるものとなれり。已に先きにアナクサゴーラスのヌース論にほの見えたる思想はアリストテ