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レースの哲學に攝取されたりとはいふものから其の大體の學相に於いては彼れはプラトーンと同じ思想の潮流に屬せり。希臘の思想界に件の三偉人が相踵ぎて現はれたるによりて其の學相は之れに對するデーモクリトスの機械的世界觀を壓倒し其の世界觀に對して正當に與ふべき價値を附與せざりし趣あり。即ち希臘哲學に於いては其の中心と見るべき大潮流は目的說にありて機械說は寧ろ其の傍流に過ぎざるが如き位置を取るに至れり。

《アリストテレースの生涯、性行。》〔二〕アリストテレースは西紀前三百八十四年トラキアの一市府スタギーラ(希臘人の殖民地)に生まる。父をニコマコスといひマケドニア王アミュインタスの侍醫なりき。其の家世々醫を業とせし故を以てアリストテレースは恐らくは幼少より醫學及び他の自然科學の方面に其が注意を傾けたりしなるべく且つ其の生地のデーモクリトス等の出でたる土地に遠からねばおのづから物理的知識を得る便宜をも有せしならむ。其が兩親の歿後はアタルノイス人プロクセノス彼れを引き取りて敎育せり。十八歲にして亞典府に來たりプラトーンの門に入り爾後二十年間其の師の歿するに至るまで其の門下に在りき。彼れは其の師の門