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らずや。先づプロータゴラスの說に對する關係を檢すれば二者ともに彼れが知識論を取り入れたる趣に相比すべきものあるを見る。デーモクリトスは之れを攝取して吾人の五官上に現はるゝ感覺をば全く主觀的なりと見て曰はく、眞正の知識は感官を以て觀る可からざるアトムを知るに存す一切の物はアトムを以て成る而してアトムは唯だ空間を充たして形に於いて相異なるもの即ち形(ἰδέα)が其の本質本性を成せるものにして是れ眞に實有なるものなりと。かくて彼れは感官的知覺と理性的知識とを別かち、前者は物の實相を示さず、これを示すは唯だ後者のみなりとせり。看るべしデーモクリトスは唯物論者にしてまた理性論者なるを。彼れのアトム論は一種の純理哲學なり。プラトーンも同じくプロータゴラスの知識論を攝取してその所謂感覺界を實有ならぬ生滅界のものとしこれを實有なるイデア界と別かてるは前に述べしが如し。デーモクリトスの謂ふアトムは空間に存在するもの、プラトーンの謂ふイデアは物體ならぬもの、然れども二者ともにかたちといふ語を以て其の特性を言ひ表はせるは奇ならずや。〈プラトーンの多く用ゐたるアイドス εἶδος といふ語はもと見るといふ詞より來たり凡べて見ゆるもの、殊にかたちを意味し從うて若干の事物が一定の象を具へて一種類を成せるに名づけら〉