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あるべからず、そは誤謬を正すべき標準が個人の時々刻々の感覺以外に存せざればなり。之れを要するにかくの如く全く個人的又主觀的なる知識論は自殺に終はらざるべからず。何となればかゝる說に從へば吾人は遂に遍通不易の知識を得べからざるがゆゑに斯くの如き知識論も亦當座の感想たるに止まりて之れを遍通不易の確論、萬古不易の眞理なりといふを得ず萬古不易の眞理と云ふべきもの無ければ也。また若し五官の個々の感覺のみを以て知識の要素なりとせば通常所謂感官の知覺をだに說明すること能はざるべし。何となれば通常知覺すといふことの中には彼れと是れとの關係を定むる作用ありてこれをただ五官の感覺とのみは見るべからざれば也。又若し事物に遍通常住の相なく唯だ無常なるもの、流轉變化極まりなきものならば吾人は遂に之れを知ること能はじ看取すべきものに定相なければ也、看取せむとせば其の物は夙く旣に其の物にあらざればなり。此の故に事物を知識すといふ以上は其の事物に遍通常恒の本性あることを許さざるべからず。其の常恒の性體を看取する是れ眞知識なり。

《理智の對境はイデアなり。》〔八〕件の眞知識を得るには感官以上の働きに依らざるべからず何となれば