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を知るに足らず。俗識(δόξα)亦是れ眞知識に非ず、そは俗識は五官の感覺と異なりて多少事物につきて考定する所あるものなれども未だ明瞭に其の理を看取せざるものなれば也。ソークラテースが自ら顧みて自家の無知を白狀したるは此等五官の感覺及び俗識の未だ以て眞知識と爲すに足らざるを知りたれば也。眞正の知識を得るもの即ち理智(νόησις)は明瞭に事物の遍通不易なる本性を看取するものならざるべからず。
斯くしてプラトーンはソークラテースの立塲に據りて眞正の知識は事物の遍通不易なる本性を知るに在りと主張するのみならず、また斯かる知識を在り得ざるものと論じたるプロータゴラスの知識論を根柢より覆さむと試みたり。彼れ論じて曰はく、若し五官の感覺其の者が知識にして感覺以外に眞知なくば見ゆると在るとは同一ならざるべからず。若しかくの如しとせば知識は畢竟時々刻々の感覺即ち各人に見えたる有樣に止まりて在らゆる論議はすべて主觀的又個人的のものとなり了はらむ。即ち是非眞否の區別はこゝに全く廢れて時々刻々個人の五官に現はれたる