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に拘泥せず其の法律を守り習慣に從ふことをするも是れ畢竟自家の安樂を得むが爲めなりと。故に社交によりて自家の快樂を取るは可なれども公務に服して身を煩はし國家の爲めに身命を犧牲に供するが如きは智者の爲さざる所なりと說くに至れり。吾人は此の非社會的なる點に於いて此の學派が其の道德論上大に相異なれる(寧ろ全く相反せる如き觀ある)キニク學派と殆んど同一の立塲に至れるを見る。以て希臘社會の如何に解體して個人的精神の旺盛ならむとしつゝあるかを見るべし。愛國は智者の爲す所に非ずとは此の派のテオドーロス(Θεόδωρος)〈少アリスティッポスの弟子〉の言なり。彼れまた曰へり、若し自己の快樂を得るに妨げあらば凡べて宗敎上の習はしにも拘泥せずして可なりと。
《此の派の快樂說は終ひに消極的、厭世的となれり。》〔一四〕老アリスティッポス已に妄りに快樂を取ることが眞正の幸福を得る所以の道に非ざるを云へり。此の思想を推窮すればテオドーロスが幸福の解釋の出でたる所以おのづから明らかなるべし。其の說に曰ふ吾人の眞正の幸福は心の安らかなる狀態(χᾶρά)にありて唯だ一時々々の歡樂を極むることに在らずと。又アンニケリス(Ἀννίκερις)は肉體の快樂よりも寧ろ精神上の快樂に重きを措くに至れ