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にあらば自己の所欲に從うて之れを破るも可なりとまで說きたりしがソークラテースは國法の貴ぶべき所以を說き自ら身を以てこれに殉したり。

《ダイモニオン。》〔十三〕宗敎上に於いてもソークラテースは激烈なる革命的議論を唱へし人に非ず、從來其の國人の一般に信じ來たれるが如く神々の存在を認め且つ社會の慣習に從うて之れを禮拜するの正當なるを說けり。殊に彼れは神明の照覽を信じ善惡の賞罰の行はるゝことを信ぜり。其の全體の思想は獨一神敎的に傾けりとも見ゆれどさりとて國家の多神をも否むことなかりき。彼れが國家の神々を否めりといふの理由をもて訴へられたるは或は彼れみづから一種特別の示現を心裡に聞くといへること即ち其の謂ふダイモニオン(δαιμόνιον)に原因せしならむ。所謂ダイモニオンの何たるかにつきては後世の史家其の說を一にせざれど思ふにソークラテースは個々實際の場合に處して何となく其の當に取るべき道を其の心底に感知することの濃かなりしが如し、彼れは常人にまさりて其の如き(理解すといふ可からずば寧ろ感知すと云ふべき)實際的判斷に長けたりきと思はる。此の故に或哲學史家はソークラテースは學理的知識の傍に吾人の實行を導くに缺