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人誰れか自ら好みてよからざるものを取らむや。よからざる事即ち惡をなすは畢竟眞に之れを惡と知らざれば也。無知なる是れ不德の根本なり。かるが故に人をして德を行はしめむとせば須らく先づ善の何たるを明知せしむべし。知見明らかなれば德行おのづから修まる。此の故に德は人に敎へ得べきもの、また學び得べきもの也、即ち人を導きて善に進ましむることを得る也。
《福德の關係。》〔十一〕此くの如くソークラテースの見る所によれば善は吾人に取りてよきものなれば德を修めて吾人に不利となるが如きことは決してあらざる也。クセノフォーンの錄せる所によればソークラテースは善と利(ὠφέλιμον)を相契合するものと見たるが如し。而して自己に利なるものと不利なるものとを識別して常に利なるものをのみ選擇する技能これ即ち智慮(φρόνησις)なり。吾人は一時の感情、個々の情慾に放任することなく常に自己の節制堅忍の志を保つべし。(ソークラーテースは實に克己節慾(σωφροσύνη)の人、外物に役せられず、自己を制することの自由自在なるを得たりし人なり。)斯く德は自己を制して常に己れに善きものを採るにあるが故に德の修まれると其の人の幸福なるとは決して離れたるものにあら