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凡べて五官の知覺は物の眞實の相を示さず、唯だ外物が吾人の五官に觸れたる狀態を示すのみ、言ひ換ふれば五官の知覺は主觀的にして不變不易なる外物そのものの眞相を示さず。唯だ理性の作用のみよく吾人に眞實の知識を與ふ。而して理解の作用も亦畢竟靈魂のアトムの運動に外ならず。其の運動が靈魂をして正當の溫度を發せしむれば事物を理解すること正しく、寒或は熱に過ぐれば謬見を生ず。理解は吾人をして物の眞相(アトム幷びに虛空)を觀ぜしめ五官の知覺は唯だ其の確かならぬ外貌を見しむるのみ。デーモクリトスは五官の知覺も理性の知解も共にひとしく靈魂のアトムの運動に外ならずと說きたるにかゝはらず尙ほ斯くパルメニデース、エムペドクレース等と共に兩者の間に眞假の區別を置けり。

《幸福論、鬼神論。》〔十〕デーモクリトスは知識を分かちて五官の與ふる麁笨なる智識と理性の與ふる眞實の智識となせる如く又快樂を分かちて肉慾を充たす快感と眞正の幸福(εὐδαιμονία)となせり。肉慾の快樂は欲求の苦痛を醫するによりて生ず。幸福は牛馬の多きにあらず、金銀珠玉にあらず、肉身にあらず、ただ心の德のみよく眞實の滿足を與ふ。約言すれば眞正の幸福は心の靜平なるησυχία)にあり。デーモクリ