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きと脈うつ高い慟悸に全身を硬直させ、拳を握りしめた。幹子の声は絶え絶えに、いつまでも続いた。

「煩さいなッ――なにをいつまでも泣いているんだ。少しは眠らせてくれ。夕はちっともねやしない。」

「そんなこと知りません。勝手ですわ。」

 幹子は信作の声に、きっと起き直り、瞋恚に燃える眼を凝っと信作に注いだ。信作は黙って布団に顔を埋めた――。

 深い寂寥感がどっと突きあがってきた。誰が悪いのだ。俺か、幹子か、それとも二人共にか。否。否。誰も悪くはない。何も悪くはない。啻みんなが淋しいのだ。不幸なのだ。それを匿しあっている。欺きあっている――。

 信作は又眼を閉じた。ふと泣けそうな気がした。眼をしばたたいてみたが、瞼はかさかさに乾き切っている。涙など一向に出そうにない。

 被っている布団に息苦しさを感じ、彼は頭を投げた。幹子は簞笥の前に佇ち、何か調べているらしい。時々片手で鬢のほつれを搔きあげるその襟頸が白く透いて見え、憎々しいほど綺麗だ。先刻の取り乱した容ママ子は微塵もない。彼の脱ぎ捨てた服はきちんと衣紋竹に吊されて、長押に懸っている。彼は狭い部屋の中を見まわした。何もかもが整然とその場所を得て形付いている。鏡台、花瓶、人形、其れらは無言のうちに幹子を反映して、彼を威圧していた。「これだ。これが俺を窒息させるのだ。」

 信作は布団を撥ねのけ、

「おい、着物を出してくれッ。」

 振り向いた幹子の顔は、瞬間動揺したが、すぐ堅く立ち直り、素直に乱れ籠の中から畳んだ普段着をとり出し、羽織を重ね、彼の後にまわった。信作はその手から帯をひったくり、ぐるぐると巻きつけたが、さてそれからどうするという見当のつかぬ苛立たしさに、佇ったまま幹子の顔を見おろしていた。

 幹子は冷たく、その視線をそらし、

「なにをそんなに、私の顔ばかり見ていらっしゃるの。それよか、頭の痛いの、もういいのですか。」

 信作はその言葉に、剔るような残忍な憫笑と、侮蔑とを感じ、ぶるぶると全身をおののかせたが、むっと耐え、腰をおろし莨に火をつけ、一服喫んで――顔を顰めた。まだ顳顬のあたりはずきずきと疼き、後頭部は割れるように重い。

「痛いんでしょう。ねていらっしゃればいいのに、起きたって用もないんでしょう。」

 幹子の冷静な諦観のうちに、動物的な強い生活力が秘められており、それを意識的に糊塗する幹子のよそよそしい態度は、信作の神経には耐えられぬ刺戟であった。

 癩――その一線で、信作と幹子とは同体だった。それへの共通な恐怖が、今まで彼を長い間、怯懦の因とし、甘えさせていた。弱い自己、寂しい自己、儚ない自己、惨めな自己、それら凡ての貧困感を、その中に覆い匿して来た。而し、幹子にとって肉体的な疾病である癩は、信作にとって、精神的疾病であったのだ。何処に住もうが、何のような生活に居ろうが、癩は彼の中に到底消すことの出来ない烙印となって残っている。それから救われるには、啻彼が、もう一度人間として新らママしい自覚に到達しなければならない。癩を畏れてはならない。癩に甘えてはならない。新たな生命を自覚し得た時、癩は癩として、そのまま消滅するに違いない。そうなるには、その境地に到達するには、――

「あなた、もうお休みにならないんですか。頭が痛いんでしょう。お休みなさいな。……お休みにならないんなら、布団をたたみますよ。」

「うるさい。」