れて、たゞ代々の聖人の說をのみ聞なれたるものなれば、自然なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は神の御心より出て、その御所爲なることをしも、えしらねば、大旨の甚くたがへる物をや、
もししひて求むとならば、きたなきからぶみごゝろを祓ひきよめて淸々しき御國ごゝろもて、古典どもをよく學びてよ、然せば、受行べき道なきことは、おのづから知てむ、其をしるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける、かゝれば如此まで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ、見つゝ默止えあらず、神直毘神大直毘神の御靈たばりて、このまがをもて直さむとぞよ、
上の件、すべて己が私のこゝろもていふにあらず、こと〴〵に古典に、よるところあることにしあれば、よく見む人は疑はじ、
かくいふは、明和の八年といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢國飯高郡の御民、平阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす、