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淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり、凡て神は、ホトケなどいふなる物のオモムキとはコトにして、ヨキ神のみにはあらず、アシきも有て、心も所行シワザも、然ある物なれば、アシきわざする人もさかえ、善事ヨキワザする人も、マガることある、よのつねなり、されば神は理の、アタリアタラヌをもて、思ひはかるべきものにあらず、たゞその御怒ミイカリカシコみて、ひたぶるにいつきまつるべきなり、されば祭るにも、そのこゝろばへ有て、いかにも其神の歡喜ヨロコび坐べきわざをなもべき、そはまづ萬齋忌イミキヨまはりて、穢惡ケガレあらせず、タヘたる限美好ウマキモノサワタテマツり、アルコトひきフエふき歌儛ウタヒマひなど、おもしろきわざをして祭る、これみな神代のアトにして古の道なり、然るをたゞ心の至り至らぬをのみいひて、タテマツる物にもなすわざにもかゝはらぬは、漢意カラゴヽロのひがことなり、さて又神を祭るには、ナニわざよりも先火をオモ忌淸イミキヨむべきこと、神代書の黃泉段ヨミノクダリを見て知べし、神事カムワザのみにもあらず、大かた常にもつゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり、もし火ケガるゝときは、禍津日神ところをえて、アラび坐ゆゑに、世中に萬禍事マガゴトはおこるぞかし、かゝれば世のため民のためにも、なべて天下に、火のケガレイマまほしきわざなり、今の代にはタヾ神事カムワザのをり、