Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/29

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東京地學協會報告第十六年第三卷にあり、石川貞治氏が明治二十七年に千島を巡回せらたることを記す、本文は主として地質學上の調査なれとも、左の件は吾人の最も注意すべきものなりとす、

氏は云へらく擇捉島シヤナ市街に竪穴の痕跡ありて繩紋ある土器の破片夥多しく散在す、又郡役所よりシヤナ橋に下る處の崖端に骨層あり、海獸の骨骸と覺しきもの地中に堆積し、此中より土器及石鏃の破片を發見せるものあり(報告一二一頁)

こはミルン、ヒチユコツクの文と互に比較すべきものとす、

尙氏はシヤシコタン島の所に記して云へらく (一二九頁) 小屋の側より繩紋ある土器、石鏃、其他赤及び綠色を用ゐ草花を畫きたる磁器の破片を得たり、磁器は本邦製の者と思はれず、或は露人も居住せること[1]あるか、又は土人が露人より得たるものか詳ならず、此地の穴居はシユムシユ島に於けるものと同一なるが如きも著しく廢滅せり」この文は大に參考すべきものにして、同島には確かに石器時代の人民の棲息せしこと是に因て知るを得、

 (一三)ミルン氏 Notes on a Journey in north-east Yeso and across the Island.

ロンドン地學協會報告第三卷中にあり、本文中吾人に最も必要なるは二六-—二七頁に於ける人類學上の注意是なり、

氏は云へらく、札幌、室蘭、釧路、及び千島諸島に竪穴の遺跡存在す、アイヌはこれに就て云ふ、この遣跡は彼等と曾て戰ひし所のコロボツクルの手になりしものなりと、余は擇捉島にて數百の竪穴を實見せり、且つ千島の最北、シコムシユにて千島土人の竪穴に現在棲息するを實見しき、是等の千島土人は現今日本政府の治下の民となり、千島の最南色丹島に移され、人口は總計僅かに七十人許なりとす 日本人は南方に於てアイヌと會し、これを北方に追へり、アイヌは北海道に於てコロボツクルに會し、彼等を再び追へり、彼等の殘物は蓋し千島土人乎、されど千島土人は今や殆んど絕滅せんとする運に至れり、

以上はミルン氏の說なり、氏の亞細亞協會報告に記せられたる千島土人の文と兩者對照比較すべし、

(一四)長谷部氏時任氏千島巡航概記

明治九年開拓中判官長谷部辰連、同五等出使時任爲基氏等が官命を受け千島諸島に航したる時の記行なりとす、こは轉載せられて東京地學恊會第十四、第十五兩年報告中にあり、今回書中記する所の大概を記せば左の如し、

氏等が千島に航したる際には、千島アイヌとアリウトの二種族住居せり、前者は主としてシムシユ、シヤンコタン、オン子引用エラー: 冒頭の <ref> タグは正しくない形式であるか、不適切な名前ですコタン、にありて、後者は全くウルツブ、シムシルの兩島にあり、二者とも固有の言語を有し、又傍ら不充分なりと云へとも露語を解す、而して二者の住所は共に竪穴にして、アリウトにては皮張船を製作使用す、二氏はシムシユにて彼等の祖先は曾て南方千島より移住なし來り

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