Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/28

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飜譯せば左の如し、千島研究に就て幾分か參考となるならん、「千島」の地形を記して日く(二一九頁)

東海に碁布したるクリール群島は其形、半圓にしてカムチヤツカの南端より蝦夷の北岬に至る、延長凡一八〇哩、カムチヤツカ火山脈に連延す、小島を除きて其數二十二個より成立し、就中最も大にして著明なるものはイテルツプ、クナジル、シコタンの三島となす、全島山多く、十內外の高山ありて多くは噴火山にて死火山も亦少なからず、地味は磽确にして豐饒ならず、氣候は最も荒く寒氣酷烈なり、植物は南部を除く外、最も稀にして多く灌木草苔の類なり、森林はイテウル、クナジル、ウルツプにあるのみ、動物は狐、狼、水獺、獵虎等なり、島民は皮膚暗黑色にして身長高からず、其相貌は蒙古人種よりは寧ろ歐人に類似す、一八七五年に至る迄群島の一部は露國に、一部は日本國に屬せり、されど境界の畫然たるにあらず、一八七五年四月二五のベテルブルグ條約にてサハレン島の南部を露に與へて千島と交換せり、

氏は更に千島の沿革を記して曰く(二一九頁至二二〇頁)

日本船はカムチヤツカの南端に漂着せり、是に於て露人は始めて千島のあること[1]を知れり、時に一八七〇年なりき、一一七一年露西亞人アンツ井[2]ヘル、ゴズ[2]ルスキーの兩人はカムチヤツカにて暴動を起し、商舘の番頭アツラソウなる者を殺戮したり、而して己の罪を償ふ爲めに多くのカザツク兵を率ひ探檢を企て占守島に上陸し、土民と戰て大に勝利を得、島民を露國の隷屬となし、尙ほ進んでイテウルプに渡れり、島民抗する能はず、ポリシエレックに退けり、

一七一三年、ヤクートスキーの鎭臺司令官はコリツ井[2]ルスキーなる者を遣はして千島の取調をなさしむ、而して氏の事業は大に功を奏し、占守、イテウルプの人民に毛皮の貢を課したるのみならず、日本人は鑛物採集の爲め屢々來航することを知れり、一七一九年測量家エウレ井[2]ン、ルジンなる者占守島に渡來す、一七六六年及び一七六七年に百夫長なるチヱルニー、案針助手チヱレジンは毛皮貢徵集の爲めに渡來し、ヲチヱンジンは蝦夷島に來れりと云ふ、是よりして千島航海の端を發き、露米商社はウルツブ島に支店を開設せり、其他貿易の事業の爲め露米の商人は屢々渡來せり、露人サル井[2]チヱウは一七八九年に來り、英の航海者ブロウトンは一七九六年に、海軍大尉フヲストーウダウイゴ(露人)は一八〇二年に來り、船長クルゼンシテルンは一八〇五年に、船長ゴロウ井[2]ンは一八一一年に來りき、ゴロウ井[2]ンは遂に日本人の爲めに國後に擒となれり、

北部千島の漸々露領に歸すると同時に、耶蘇教も傳播し、一七四七年カムチヤツカの掌院ホコウンチヱウスキーなる者は、修道司祭イヲサプを傳導に遣はせり、當時占守、イテウルプ二百五十三人の住民ありき、其中五十六人を洗禮して歸れり、而して少年教化の爲め小學校を開設せり、

(一二)石川貞治氏千島巡撿雜記

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