是れ先住者︀の竪穴を利用したるものならんとてミルン氏を駁せられたるがごときは、實に余は氏の見聞の博からざるに驚かざるを得ず、占守土人の竪穴を自から作り、これに住するは只だにミルン氏の記󠄂載にのみ存する者︀に非して、ポロンスキー氏の千島誌、長谷部氏千島巡航雜誌、スノフ氏の千島誌、其他諸︀書に散見する多し、殊に現今色丹󠄁移住の千島土人は移住前これを作りたるなり、この事實は少しも疑ふべきものにあらず、氏にしてこれを疑ふこそ反て疑はしけれ、且つ現今の色色土人は竪穴に住まずと云はれたれども、是れ氏の調査の充分ならざることを世に示すものにして、色丹󠄁土人の竪穴(移住前と少しの變化はあれども)に住まふことは小金井氏、ヒチユコツク氏、其の他同島に渡航せし人は何人もこれを疑はざる所なりとす、
氏は附錄三〇五—三一二頁中に集められたる蝦夷、千島兩アイヌの單語は參考とするに足るものなれども、余は氏が兩アイヌ語を互に區別するか、或は二者︀に印しにても附せられざりしを遺憾とす、氏の單語集にては何れが蝦夷、何れが千島なる乎を知るに苦しむ、
されど氏の色丹󠄁アイヌを以て蝦夷アイヌと同一なりとせられたるは、吾人は氏に向て其調査の勞を謝せざる可からず、
(五)小金井氏 Beiträge zur Physischen Anthropologie der Aino. 第二篇
小金井敎授は都︀合二回アイヌ調査として北海︀道へ渡航せられたり、而して第二回巡回の際には色丹󠄁島寄航せられ、曾て千島群島より移し來りし千島土人の人類學的調査を試みられたり、其調査報吿は醫科大學紀要アイスの論文󠄁第二册生躰調査篇に登載せらる、敎授はこの論文󠄁中千島土人に就て如何なることを記󠄂せられたるか、其を左に記󠄂載せんとす、
躰質 敎授の調査に最も重を置かれたるはこの部門なりとす、而して其調査は骨格に因てせられたるにあらず、專はら生體に就て測定觀察せられたるものとす、敎授の調査に係る人員は男子七人、女子十三人、合計二十人なりとす、
氏は說き出して曰へらく、ミルン氏は千島アイヌを身長短小、圓頭、濃き短鬚を有し、長鬚の者︀なく且つ容貌も蝦夷アイヌと異なるが如く云はれ、又󠄂スクリバ氏は千島アイヌはカムチヤッカ人と露西亞人との雜種ならんと云はれたれども(二九八頁)氏が体質調査の結果は、千島アイヌは蝦夷アイヌと等しきものにして、二者︀特別に異なる點無きこと[1]を吿ぐ (二九九頁) と記せらる、而して敎授の測定は二七三頁より二九七頁の中にあり、尙ほ個人としての躰質上の記󠄂載は男子は三六三—三六六頁、女子は三九一—三九六頁にあり、更に二七三—二九七頁の測定一覽表とし、尙千島土人の容貌躰質を示す爲めに圖版第六版六、第七版四に寫眞を出したり、
敎授は躰質上千島アイヌは蝦夷アイヌと全󠄁く等しきものとせらる、今敎授の測定せられたるものゝ中より、一二の測定を揭げ、千島、蝦夷、唐太の三アイヌと比せば左の如し(男子)
- ↑ ひらがな「こと」の合字