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第一章 千島アイヌに就ての參考書

これまで千島アイヌのことに就て何程まで知られ居りし乎、余はこれに付て種々參考書を求めたるが左の書類を得たり、因て余は此處に其書名を列記󠄂するとともに尙其書籍に付て聊か記するあらんとす

 (一)ミルン氏 Notes on the Koro-pok-guru or Pitdwellers of Yeso and the Kurile Islands. IB, Con Kurile Islands.

此論文は日本亞細亞協會報告第十一卷第二册(一八四—一九八頁)に記せられたるものなり、氏は最初にブラキストン氏が始めて北海︀道の竪穴、石器︀、土器︀に注目せられたることより、次に自身が根室及び辨天島、擇捉島、其他北海︀道の竪穴を見、土器︀、石器︀を採󠄁集せしことに及び、扨是等の器︀物を製造使用し、竪穴に住ひし者︀は抑も何者︀なる乎との疑問を起したり、アイヌはこれに就て、コロポッグルの遺物なりと傳ふ、千島の北端には今尙ほ竪穴に住へる者︀あり、此所に於てか、氏はこの堅穴に住ひし人民は或は北海︀道に石器︀土器︀を遺せし、アイヌの所謂コロポッグルに非らざる乎との考へを有し、一八七八年 (明治十一年) 氏は千島の占守島に渡航なしたり、當時は未だ現今の如く千島は無人の土地にあらずして、同島にも土人は居住なせり、ミルン氏の占守見聞は以上の論文中、僅かに一九一頁の所一頁にのみ登載せられたれども、この事實は最も有益︀なる報告にして、今日千島土人のことを云ふものはこの一頁の報告を常に參考として使用するに至れり、

氏の占守に赴かれる際には、人口は男女、小兒合して僅かに二十二人に過ぎず、而して彼等は自から“Kurilsky Ainu”と呼び、固有の言語の傍、聊か露語に通ず、容貌は蝦夷アイヌと稍や異なる觀あり、鬚は濃なれども短かく、蝦夷アイヌの如き長髯のものを見ず、頭は圓く、身長は小にして、衣服は西洋形にて獸皮、鳥皮等より作り、足に海︀獅子の長靴を穿つ、而して彼等の住居は竪穴なり、更にミルン氏は土人の語れることを記して曰く、彼等は時々木船にてカムチヤッカに行くと云ふ、二年以前、彼等の或ものは南方に移りたれとも、其の何島に至りしやを知らず、然るにスノフ氏によれば、其南方に移りし或ものは一八七九年、一八八〇年の冬󠄀間マツアに住ひ、後又󠄂轉じてラシア及びウシヽルに來れり、要するに彼等の移轉は常なきものゝ如し、尙ほスノフ氏は云へらく彼等の或老人は云ふ土人の最初は唐太島より來れりと、

以上はミルン氏が論文中に揭げたる千島土人に關する事實なり、

この文は頗る簡單なりと雖とも、千島土人の色丹󠄁移住前の有樣を知らんとするには是非とも參考とすべきものにして、且つ其躰實の二三の記󠄂載は又󠄂大に注意すべきものとす、

 (二)スノフ氏Notes on the Kurile Islands.

一八九七年の出版なり、氏は船長の職を務め久しく千島にあり、氏は專門學者︀にあらずと雖も、氏ほど千島の事情に精しき人はあらざる可し、