Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/20

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木綿、刀劒等を所持せりと云ふ、尙は千島土人の談話に依れば擇捉、國後の蝦夷アイヌは日本の貨物をラサワ島まで持來り、此島にて千島土人の物品と互に交󠄁換せり、而して當時の交󠄁換物品は蝦夷アイヌは我邦の木綿、鐵鍋類を持行き、千島の土人は臘虎の皮、大鷲の羽󠄀を持來り互に之を交󠄁換せり、と云ふ、(又󠄂土人の口碑︀に據れば、カムチヤツカの土人は常にクリール海︀峽を經て占守島に來り、千島アイスの墓を發いて鐵器︀類を持去りしこと屢々ありたりと云ふ)余は今回ポロモジリ島を探檢するに當り、彼等の傳ふる所の我邦の鐵鍋、鍔等を發見することを得たり、

さて以上の千島土人はこれまで世人、否な學者︀に忘れられたるものなり、不肖󠄁なる余はこの忘れられたる土人否な今やまさに絕滅せんとする六十二人の千島土人の調査として東京帝國大學より出張を命ぜられ千島に赴きたり、本書は即ち當時の取調結果を記󠄂したるものなり、


千島之事

東海︀得撫島より前路。新知島より東察加地方に至るまで。凡千餘島みな丑寅に流る。所謂千島にて。蝦夷人之を稱してチユプカと云ふ。チユブカとは。日出處といふの義なり。其島の大なるもの十六。小なるもの其數をしらず。古昔皆我蝦夷の屬島たりしに。八十年前正德年中。露西亞人。東察加併呑してより。漸々に諸︀島を蠶食して。三十年前より新知迄を服從して。其島々の名を改めて。露西亞の名となし。二十年前より夷人の風俗をかへて。露西亞の風俗となし。往古より日本に屬せし蝦夷をして。髪を組み帽子を被り。股引を用ひ靴を穿ち鐵炮玉藥を與へ。露西亞人の言をつかひ。靈ママ西亞の佛を頸に掛け。露西亞より役人。並︀にコウロウイシヤムといふ敎法師をして。時々諸︀島に至り撫順せしめ。其夷人も盡く露西亞に貢を納るゝに至らしめ。十年前より得撫島に到りて土着し。傲然として去らざるに至る。東察加はクルセムの國地にして。本我蝦夷の種族なり。其地今露西亞北海︀の要津となる。嘆︀ずべきにあらずや。チユブカ諸︀島の地理。前輩の圖書大抵疎漏少からず。天明中。最上常矩。嘗て得撫島に至り。露西亞人イシユヨテケタに邂逅して。其大略を得たり。然れども未だ詳なる事を得ず。寛政十二年守重奉命して。擇捉鳥を按察し。露西亞の建たる十字の棒杭を倒し。同島カムイワツカヲイに於て木を立て。日本の標とす。翌年擇捉島を新開し。露西亞人に變ずる所の風俗を改て。本邦の風俗となす。時にチユプカ夷人。イチヤンゲンシ來て投化す。イチヤンゲンシは。ラクヨウ島の產なり。其子インモンケセツクルも共に。本邦の風俗を仰ぎぬ。則イチヤンゲンシを改て。市助と名く。市助曾て東察加地方へ往來し。能く針路を辨し。其島嶼嶴泊のある所と。風順汐路の宜き所を知る。於是守重。米を紙上に聚て。島形を作らしめ。語問講究し。擇捉の酋󠄁長。イコトイ及ハツコ。其他しば〳〵チユブカ諸島へ。往來經過せる夷人は。ウシビタカロクイベツケウシ等と。再三討論して。初て諸島の形勢詳なる事を得たり。加ふるに蠻人の說を以てし。邪弗加考を作る。

得撫島露西亞人改名オトセナツサトイと云

此島今本邦と露西亞と。分界の地となれり。擇捉島カムイワツカクイより。得撫島オカイワタヲ迄。渡海︀凡十六七里寅に當る。周回凡七八十里もあるべし。港泊の東邊はトホ。(深凡六尋)四邊ハワニナウにあり。此地古來より。擇捉國後根室厚岸四郡の夷人等。露西亞人ともに。古來より臘虎獵せし所なり。然れども土着の夷などは。夏秋の間集り漁するのみにして。時として越年するものもあり。露西亞人は。日本より多く此地に越年す。三十年前。露西亞人と蝦夷人と。北島に於て爭闘あり。それより後。新知前路の夷人。盡く露西亞の屬となる。寛政七年。露西亞人一時に六十人渡來。漸々に歸國し。其中ケチトフシ其外十七人居殘りて。今に此島に在留し女三人あり。生む所の子旣に七八歲に及べり。

 露西亞人 初は東邊トホに居。今は西邊ワニナウヘ移れり。

其產物は臘虎が第一とす。夷人は臘虎を捕に。弓にて射。やすにて突︀取。露西亞人はサシ網を張り。鐵砲にて打なり。又󠄂ニノと云(此膓ムニとなる)貝多し。其他海︀豹鮭鱒ウルツプ。