Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/18

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人の家四五軒ありたり)然るに千島交󠄁換の後此土人は他に移りたるを以て、今はウルップ、シンシルは無人の島と爲りにき、

余の今回の調査は主として北千島に住する千島固有の土人に就てなしたり、されば余は彼等に就て出來得る限り躰質、言語、風俗、習󠄁慣、古傳、口碑等の取調をなしき、

現今色丹󠄁島に居る所の土人は、明治十七年日本政府が北島より移住せしめたるものにして、其當時九十七人ありたりと云ふと雖も、余の調査したる所に據れば少しく疑なきこと能はず、而して現今此島に居る所の者︀は露西亞敎の感化を受くるを以て、其土人の名も露西亞風の名を附し、尙ほ露西亞派の敎會を設立せり、此敎會の調査に據るに明治十七年に移りたる土人は九十四人と爲れり、然るに色丹󠄁戶長役塲の帳簿にて余の調査したる所にては九十六人とあり、其中一名は赤子にして移住當時直︁ちに死せしものなる故に大略明治十七年には九十五六人在りたるものと見て可ならん、此人員は今日に至りては、僅に十六年明治三十三年までを經過せしのみにて其死亡󠄁者︀六十三人に達し、其出產者︀は僅に四十四人にして、而も其中十八人は生後直︁ちに死亡󠄁せり、故に現在の人員は總數六十二人にして而も男子より女子の方十二人多しとす

明治一七年 —— ——
仝 一八年
仝 一九年 ——
仝 二〇年 一〇
仝 二一年
仝 二二年 —— ——
仝 二三年 —— ——
仝 二四年 —— —— ——
仝 二五年 —— ——
仝 二六年 ——
仝 二七年 ——
仝 二八年 —— ——
仝 二九年 —— ——
仝 三〇年 ——