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魯國行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人たる務めは忽地に余を載せ去りて、靑雲の上に墮したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を圍繞せしは、巴里絕頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる王城の粧飾、故らに黃蠟の燭を幾つ共なく點したるに、幾星の勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤の工を盡したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西語を最も圓滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を辨ずるものもまた多くは余なりき。

この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日每に書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく獨りにて燈火に向はんことの物憂さに、知る人の許にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちに寐ねつ。次の朝目醒めし時は、猶獨り跡に殘りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の略なり。

また程經てのふみは頗る思ひせまりて書きし如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。君は故里に賴もしき族なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛にて繫ぎ留めでは止まじ。それも恊はで東に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何處よりか得ん。怎なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしよりこの二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂を分つはたゞ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなりし、それさへあるに、縱令いかなることありと