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は伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比故鄕にてありしことなどを擧げて余が意見を問ひ、折に觸れては道中にて人々の失錯ありしことどもを吿げて打笑ひ玉ひき。

一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて。「余は明旦、魯西亞に向ひて出發すべし。隨ひて來べきや、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん、この答はいち早く決斷していひしにあらず。余はおのれが信じて賴む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり、さてうべなひし上にて、そのなし難きに心づきても、强て當時の心虛なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屢々なり。

此日は飜譯の代に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでの費をば掩ひつべし。彼は醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除いたりと言ひおこしつ。また一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。

鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身にあはせて借りし黑き禮服、新に買ひ求めしゴタ板の魯廷の貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」に入れしのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘らんも物憂かるべく、又た停車場にて淚こぼしなどしたらんには影護かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戶を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。