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らぬ人は何とか見けん。又た一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余と俱に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。

我學問は荒みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令條目の枯葉を紙上に搔寄せしには殊にて、今は活潑々たる政界の運動、文學美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを學びて思を構へ、樣々の文を作りし中にも、引續きて維廉一世と佛得力三世との崩殂ありて、新帝の卽位、ビスマルク侯の進退如何などの事に就ては、故らに詳かなる報吿をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ藏書を繙き、舊業をたづぬることも難く、大學の籍はまだ刪られねど、謝金を收むることの難ければ。唯〻一つにしたる講筵だに往きて聽くことは稀なりき。

我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ民間學の流布したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若くはなからん。幾百種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尙なるも多きを、余は通信員となりし日より、曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又た讀み、寫しては又寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同鄕の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社說をだに善くはえ讀まぬがあるに。

明治廿一年の冬は來にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、鍪をも揮へ、クロステル街のあたり