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あらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獸綿の衣を着、汚れたる上靴を穿きたり。エリスの余に會釋して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戶を劇しくたて切りつ。

余は暫し呆然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戶を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。內には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又た靜になりて戶は再たび明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて、余を迎へ入れつ。戶の內は厨にて、右手の低き窻に、眞白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正面の一室の戶は半ば開きたるが、內には白布を掩ひし臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戶を開きて余を導きつ。この處は所謂「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏よりに向ひて斜に下れる梁を、厚紙にて張りし下の、立たば頭の支ふべき處に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一二卷と寫眞帖とを列べ、陶甁にはこゝに似合はしからぬ價高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帶びて立てり。

彼は優れて美なり。乳の如き色の顏は燈火に映じて微紅を潮したり。手足の纖く裊なるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出し跡にて、少女は少しく訛りたる言葉にて云ふ。「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリア」座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、早や二年なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を拆きて還し參らせん。縱令我身は食はず