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くもあらず。この靑く淸らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

彼は料らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覺えず側に倚り。「何故に泣き玉ふか。ところに繫累なき外人は、却りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大膽なるに呆れたり。

彼は驚きてわが黃なる面を打守りしが、我が眞率なる心や色に形はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又た我母の如く。」暫し涸れたる淚の泉は又た溢れて愛らしき頰を流れ落つ。

「我を救ひ玉へ、君。わが耻なき人とならんを。母はわが彼の言葉に從はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは協はぬに、家に一錢の貯だになし。」

跡は欷歔の聲のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注ぎたり。

「君が家に送り行かんに、先づ心を鎭め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覺えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又た始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。

人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戶を入れば、缺け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潛るべき程の戶あり。少女は鏽びたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて强く引きしに、中よりしはがれたる老媼の聲して、「誰ぞ」と問ふ。エリス歸りぬと答ふる間もなく、戶をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髮、惡しき相には