Page:Minawa shu.pdf/87

このページは校正済みです

たるを我れ乍ら怪しと思ひしが、これぞなかに我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又た早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。

彼人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。

赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣を纒ひ、珈琲店に坐して客を延く女を見ては、往てこれに就かん勇氣なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にてものいふ「レエベマン」を見ては、往てこれと遊ばん勇氣なし。此等の勇氣なければ、彼活潑なる同鄕の人々と交らんやうもなし。この交際の疎きがために、彼人々は唯〻余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することとなりぬ。これぞ余が寃罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閱し盡す媒なりける。

或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫步して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頰髭長き猶太敎徒の翁が戶前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに樓に達し、他の梯は穴居の鍛冶が栖家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てる、此三百年前の遺跡を望む每に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。

今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を吞みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてみかへりみたる面、余に小說家の筆なければこれを寫すべ