Page:Minawa shu.pdf/86

このページは校正済みです

も、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連りに法制の細目に抅ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなどゝ廣言しぬ。又た大學にては法科の講筵を餘所にして、歷史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼む境に入りぬ。

官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時の地位なりけり。されどこれのみにては、尙ほ我地位を覆へすに足らざりけんを、日比伯林の留學生の中にて、或る勢力ある一群と余との間に、面白からぬ關係ありて、彼人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。

彼人々は余が俱に麥酒の杯をも擧げず、球突きの棒をも取らぬを、頑固なる心と欲を制する力とに歸して、且つは嘲けり且つは嫉みたりけん。されど是れ余を知らねばなり。嗚呼、この故よしは、我身だに知らざりしを、怎でか人に知らるべき。我心はかの合歡といふ木の葉に似て、物觸れば縮みて避けんとす。我心は處女に似たり。余が幼き頃より長者の敎を守りて、學の道をたどりしも、仕の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能くしたるにあらず、耐忍勉强の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きたるにて、人のたどらせたる道を、唯だ一條にたどりしのみ。餘所に心の亂れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇氣ありしにあらず、唯〻外物に恐れて自ら我手足を縛せしのみ。故鄕を立ちいづる前にも、我が有爲の人物なることを疑はず、又た我心の能く耐へんことをも深く信じたり。嗚呼、彼も一時。舟の橫濱を離るゝまでは、天晴豪傑と思ひし身も、せきあへぬ淚に手巾を濡らし