Page:Minawa shu.pdf/82

このページは校正済みです

見たり。

穉兒と顏見あはせて、深く感じたるさまにておもてを背け、懷なる金貨滿ちたる財布引き出して、老たる御者にわたしていふ。汝は心まめなる男なりと見ゆ。こは子らがために收めおきて、後に取らせよ。

伯は穉き娘を抱きあげて、愛らしき唇に接吻し、默して戶を出でむとす。

火の今燃ゆべきに待ち玉へ。士官の君。とチエツコオは後より呼びぬ。

出行く人は聞かぬまねして廐に入り、急ぎ跨りて乘りいだし、首を回らして驛舍に注ぐ最後の一目。此時左手の方より鼓鳴りて、小銃の音三つ四つ聞えつ。伯は靶ゆるめて拍車をあてしが、馬はロヂの方へと疾く馳せ出だしぬ。


舞姬

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈の光の晴れがましきもやくなし、今宵は夜每にこゝに集ひ來る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。

五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで來し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行は日ごとに幾千言をかなしけむ、當時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし册子もまだ