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をさして車を驅りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、萬戶寂然たり。寒さは强く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらと輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一聲叫びて我頸を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の內にて云ひしが聞えず。

「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絕えなんを。」

我心はこの時までも定まらず、故鄕を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊踟蹰の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの淚ははらと肩の上に落ちぬ。

「幾階か持ちて行くべき。」と鑼の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。

戶の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きたり、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆く積み上げたりければ。

エリスは打笑みつゝこれを指して。「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上げしを見れば襁褓なりき。「わが心の樂しさを思ひ玉へ。產まれん子は君に似て黑き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黑き瞳子なり。產れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には淚滿ちたり。