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德の舞を二つ忘れたりければ、五德の冠者と異名をつきにけるを、心うきことにして、學問をすてゝ遁世したりけるを、慈鎭和尙、一藝あるものをば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に敎へてかたらせけり。さて山門のことを殊にゆゝしくかけり。九郞判官のことは委しく知りて書き載せたり。蒲冠者のことはよく知らざりけるにや、多くの事どもをしるしもらせり。武士のこと弓馬のわざは、生佛東國のものにて、武士に問ひ聞きてかゝせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。

六時禮讃は、法然上人の弟子安樂といひける僧、經文を集めて作りてつとめにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、ふしはかせを定めて聲明になせり。一念の念佛の最初なり。後嵯峨院の御代よりはじまれり。法事讃も、おなじく善觀房はじめたるなり。

千本釋迦念佛は、文永のころ如輪上人これをはじめられけり。

よき細工は、少しにぶき刀をつかふといふ。妙觀〈寶龜年間佛工〉が刀はいたくたゝず。

五條の內裏には妖物ありけり。藤大納言殿〈爲世〉かたられ侍りしは、「殿上人ども黑戶にて碁をうちけるに、御簾をかゝげて見るものあり。たぞと見向きたれば、狐人のやうについゐてさしのぞきたるを、あれ狐よととよまれて、惑ひ遁げにけり。未練の狐ばけ損じけるにこそ」。

園の別當入道〈基氏〉は、さうなき庖丁者なり、ある人のもとにて、いみじき鯉を出したりければ、皆人別當入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でむもいかゞとためらひけるを、